よほどヘーゲルの好きな男と見える

この小説読むの二回目だったことに読んでる途中で気づいたが、面白いテンプレを見つけた。

ヘーゲルベルリン大学に哲学を講じたる時、ヘーゲルに毫も哲学を売るの意なし。彼の講義は真を説くの講義にあらず、真を体せる人の講義なり。舌の講義にあらず、心の講義なり。真と人と合して醇化一致せる時、その説く所、言う所は講義のための講義にあらずして、道のための講義となる。哲学の講義はここに至って始めて聞くべし。いたずらに真を舌頭に転ずるものは、死したる墨を持って、死したる紙の上に、空しき筆記を残すに過ぎず。何の意義かこれあらん。…余、今試験のため、即ちパンのために、恨みを呑み涙を呑んでこの書を読む。岑々たる頭を抑えて未来永劫に試験制度を呪詛することを記憶せよ。



ヘーゲルの講義を聞かんとして、四方よりベルリンに集まれる学生は、この講義を衣食の資に利用せんとの野心をもって集まれるにあらず。ただ哲人ヘーゲルなるものありて、講壇の上に、無常普遍の真を伝うると聞いて、向上求道の念に切なるがため、壇下に、わが不穏底の疑義を解釈せんと欲したる清浄心の発言に外ならず。この故に彼らはヘーゲルを聞いて、彼らの未来を決定し得たり。自己の運命を改造し得たり。のっぺらぼうに講義を聴いて、のっぺらぼうに卒業し去る公等日本の大学生と同じことと思うは、天下の己惚れなり。公等はタイプライターに過ぎず。しかも欲張ったるタイプライターなり。公等のなすところ、思うところ、言うところ、遂に切実なる社会の活気運に関せず。死に至るまでのっぺらぼうなるかな。死に至るまでのっぺらぼうなるかな。


夏目漱石三四郎』より。

このテンプレはいずれ使うときが来る(特に前半)。その時のためにここに記しておく次第である。